マサムネ(概念)の正夢

イメコンとコスメと少しだけ生活の記録

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他人の推し活のこと(それ以外も)はわからない

こんにちは、マサムネです。

少し前にツイッターでバズっていたnote

すっごくおもしろい、こんな内面をさらけ出す文章を書いてくれてありがとう。自分の中の痛いファンがちらっと顔を出したり、読んでいて少し胸が苦しくなった。

彼の行動を全面的には支持できなくても、そういうこともあるかもね〜と思っていて、特に否定する気はなくこのnoteをきっかけに自分のことを考えている。(こういうとき、カテゴリー「ぼやき」に入れてるんだけど自分の中のもやもやを言語化するのが目的)

 

こんなとき、どんな言葉を発するのがいいんだろう

感情が揺さぶられたので感じたことを言葉にしておきたいなと思った。それは自分のため。だけど、感じたまま言葉にしてしまうと書いた人を傷つけることになるかもしれない。私がこのnoteを見かけたのはツイッターで、すでに色んな人がコメントをしていた。強い言葉で書かれているから私も見ようと思ったのは確かだけど、反響が大きくて想像を超えるような反応が集まったときのショックは私にはわからない。なにも反応しないというのが正しい場合も多いのかも。

ツイッターでは少しキツい書き方も多く見たけど、noteについたコメントだと丁寧で寄り添ってるものも多く私がなにか声をかけなくても大丈夫そうだな、とも思った。

人と行為は分けて考えて書かなければとも思う。でも書くのも難しいし、受け取り側がそう受け取るとは限らない。無理があるかな〜

そんなわけで、わー!と思っても言葉にすることに抵抗がある。何が適切なのか難しすぎる。それなら書くな、と思うが書きたい。困った。誹謗中傷とか批判かどうか、というよりも言葉が押し寄せたとき、積み重なった時。誰が悪いとか、あるのかないのか…

好きが暴走する

好きなもののこと、自分がいちばん良さを理解してる。って思うんだけど、あくまでも自分の価値観のなかでの話し。どうあってほしいか、これからどうなってほしいか、勝手な願望をのせているのにその人のためだと思って行動してしまう。

うんうん、あるある。わかるわかる。好きになるとずっと考えてしまったり、冷静じゃいられなかったりする。

幸い私はいい年になって熱し具合が落ち着いたのか、子供ができてそれどころじゃないのかはわからないがブレーキがうまく効くようになって暴走しなくなった。「推しは推せるときに推せ」とは言うが、追いかけていたバンドのメンバー脱退や休止や解散を幾度となく見ているうちに、推しは(こっちの都合で)推せるときに推すというスタンスになった。推しがバンドや芸人だったとして活動がなくなってしまったら縁がなかったなとは思う、それだけのこと。そういえば20年近く前に好きでよくライブに行っていた芸人は、トリオのうちひとりだけ今も活動しているのでそのうち見に行けたらいいなあ。

他人はコントロールできないし、決めつけてはいけない

結局他人のことはわからないしコントロールできない。何か発言したとして、そのときに何を求めてるか、なにを考えているかなんて想像したってわかりっこない。こうだ、と言ったことが本当かどうかもわからないし、それが本当だったとして自分の認識とは違うこともある。

例えばファンのあり方や好きな気持ちもそうだし、芸人のありかたもファンとの関わり方も全部そう。それに対してどう思うかも含め。わからないし、コントロールできない。

他人のことを決めつけない、というのは大事だと思っていて過去に書いたことがある。

決めつけないことは人との付き合い方として大事だと思っていたけど、自分を楽にすることでもあるのかも。あくまでも自分は自分、推しは推し。それぞれ違う道を歩んでいるなかで元気づけられたり応援したりと少なからず影響し合うことがあるだけ。

お金を落とさなければファンじゃない、みたいな考えもあるがファンのひとりひとりの生活や価値観があるわけで言い切ってしまうのは乱暴だよなあ。

 

自分は痛いファンだった頃、確かにあった。自分がいちばん良さを知っていると思っていたし、わかってない世間は間違っていると思ってた。センスねえな、って。

だけどそういう存在が人それぞれにあったりなかったりするのがやっとわかってきた気がする。

「推し」って言葉を結構使ったけど、あんまりなじまない。おわり。

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